1970年代にアメリカからやってきたアウトドアカルチャーは日本の若者たちに大きなインパクトを与えました。ダウンジャケットやワークブーツなどをはじめとするヘビーデューティーファッションが大ブームになり、フレームザックと呼ばれるパイプフレーム付きのリュックを背負って旅をするバッグパッキングというスタイルが若者雑誌などで多数紹介されました。
 しかし、当時の日本にはアメリカのような広大なアウトドアスポーツを楽しむゲレンデはなく、その定義すらあいまいな状況。そんな時代背景のもと、バックパッキングは登山と同義語としてメディアに紹介されました。ただ、実際これらはまったく別のものであり、前者は「歩く旅」、後者は「山頂を目指すスポーツ」なのです。アメリカにはアパラチアン・トレイルやパシフィック・クレスト・トレイルなど何千キロにも及ぶ広大な「歩く旅」が楽しめるフィールドがあるのに対して、日本では自然の中を歩く道と言ったら登山道、つまり「山頂を目指す道」しかなかったのですから当然といえば当然と言えるかもしれません。そのため本当に長い期間、日本のバックパッキング、ロングトレイルは文化として根付くことはありませんでした。

日本でのロングトレイル

 近年、わが国でもようやく「歩く旅」の意義が見直されつつあります。それは単なる健康志向のウォーキングとは異なり、アウトドアカルチャー発祥の地である欧米のように、歩きながらその土地や文化に触れる旅をしようという流れが生まれてきたのです。日本では、第一人者で作家の故・加藤則芳氏の尽力によって2008年にこうしたロングトレイルを普及させる先駆となった長野と新潟にまたがる全長80㎞の「信越トレイル」が開通。その後、加藤氏の活動に賛同する仲間たちが2011年に「ロングトレイル協議会」を発足。現在、全国10か所に本格的なトレイルが誕生しています。
 その中でも北海道の北根室ランチウェイは異彩を放っています。ランチウェイの名のとおり、広大な牧場や酪農家の庭先をかすめるように歩く全長71.4㎞。なだらかに続くトレイルは、歩いた人のだれしもが「ここは本当に日本なのか?」と驚くほどの景観を有します。放牧地を横断するためにつくられたマンパス(人のみが通れるくぐり戸)を通り、開陽台、養老牛温泉、モアン山を通り、西別岳の稜線沿いに根釧台地を眺めながら、摩周湖外輪山をほぼ半周し、弟子屈町JR美留和駅までつづくロングトレイル。日本広しといえどもこうした酪農地を巡る立地のトレイルは珍しく、貴重な存在です。
 しかも他の多くのトレイルは自治体が中心となって整備を進めたのに対して、この北根室ランチウェイはこの地で酪農を営むSさんが今から10年前、前述の加藤氏ら、仲間とともに牧場主や地域住民に理解と協力を求め、草を刈り、トレイルの文字通り道をつけていったものなのです。

北海道を「歩く旅」

 「コンセプトは『小さな町から小さな町をつなぐ道』。ただのウォーキングではなく、町に、人に、文化に触れて欲しいと願ってこのトレイルをつくりました。荷物を背負って道を歩いてなにかを感じてくれたらいい。酪農家や牧場に直に触れる体験をすることは酪農を理解してもらう上でもとても意義のあることだと考えています」と、語るSさん。日本ではまったく知られていなかった「ロングトレイル」という文化を地権者たちに理解してもらう苦労は想像を絶するものだったでしょう。しかし、その苦労のかいあって昨年は1000人近くの旅行者が北根室ランチウェイを歩いたそうです。
 Sさんはこの道をつくるとき、必ず中標津の観光スポットを通るようにルート設計をしたと言います。71.4㎞のルートは6つのステージに分かれ、レベルに応じたチャレンジが可能です。自信のある人は全ルートを踏破すれば良く、ビギナーは無理せず区切られたルートを単発で歩いても十分楽しめます。これは他のロングトレイルと比べても高低差が格段に少ないという、北海道ならではの地理的条件が大きく貢献しています。宿泊もSさんの農場には30名ほどがテント泊でき、牛舎を改築した宿泊施設もあります。また、西別岳の山小屋も利用できます。最小限の知識と装備で大きな体験ができるのです。
 ただ風景を楽しむだけでなく、牧場を歩く体験は観光資源として、産業を知るという別の側面を持っています。酪農家の人たちの生活に触れ、牛の臭いを嗅ぐ。酪農家や牛にとっての日常は、利便性を求め、自然が近くにない生活に慣れきった都心の人にとっては非日常です。広大な大地や気候、牛という生き物、そして酪農家の努力、こういうもの全部ひっくるめて酪農というものが成り立っていることを知るのに、この体験は大きな気づきとなるに違いありません。

牧場を「歩くこと」の意味

 冒頭に述べたように、歩きながらその土地や文化に触れる旅をしようという、本来の歩く旅の意義をわかりやすく感じられるのが、ランチウェイ=「牧場を歩くこと」といえるでしょう。 牧場は、欧米のような本格的なアウトドアカルチャーを体験できるフィールドであるにとどまらず、酪農という文化・産業をより身近に感じることができる場所であることから、レジャーとしてだけでなく、教育的観点からの価値も非常に高いといえます。
 そのことについて、北海道根室振興局産業振興部商工労働観光課観光・交流戦略室長 Nさんは、「『北根室ランチウェイ』は、根室地域でしか見ることのできない酪農景観を楽しみながら歩くことのできる、本当に魅力的な道です。北海道遺産『格子状防風林』などの開拓の歴史も感じられる道を、地元はもとより、この地域を訪れる学生・生徒にも、もっと歩いてもらいたいですね」と語ります。
 余談ではありますが北海道出身の北極冒険家は毎年、子どもたちを網走から釧路、東京から富士山頂など100マイルアドベンチャーと題して、夏休みの10日間を利用して160㎞を踏破するウォーキング&キャンプの活動をしており、子どもたちにとって、いかに自分の足で歩くことをベースにしたアドベンチャーが自信になるかを実証しています。自然と触れ合うだけでなく、酪農文化の根付く土地のなかを歩くことは子どもにとって自信がつくだけでなく、土地の文化、産業を学ぶことにも結びつくでしょう。
 仔牛はおなかがすくとよく鳴きます。歩いている間にその鳴き声を聞いたとき、あるいは運良く乳を飲む風景に出会うとき、我々が口にする牛乳や乳製品は、生き物の生命の源であり、それを頂いているのだということに改めて気付くでしょう。牧場の中を縫うように歩いてこそ、牛を介して人間は自然の実りを享受できるということを実感することができるのです。こうした教育的要素も強い牧場を歩く旅は、多くの観光資源を有する北海道の中でも貴重な存在です。

北海道酪農の可能性

 パノラマのように広がる大自然。そしてそこに息づく地域の産業。北海道各地の牧場ではこうした「歩く旅」をできる場所がもっと無数にあるのではないでしょうか。もっと広く整備、アピールすることでより多くのファンづくりができるでしょう。特にこれからの若い世代にアウトドアと酪農体験を併せて経験してもらえるのは、酪農文化の将来にとっても非常に大きな意義があると言えます。
 「近年、根室地域はロングトレイル以外にもバードウォッチングをするために海外からファンが訪れるなど、『大自然の体験』が観光資源になりつつあります。われわれ自治体も単なる観光地としてではなく、地域をより理解していただくための『体験』のできる場所として、北根室ランチウェイのようなロングトレイルが発展するように支えていければと思っています」(Nさん)。
 「まだまだ北海道の酪農家自体が酪農家の軒先を「歩くこと」が観光になるという価値に気づいていません。私は今後もみなさんに働きかけて、そこの理解を深めていきたいと考えています」(Sさん)。
 酪農をきっかけとした観光は、ますます多くの人を呼ぶ仕掛けに広がっています。
 一昨年、東北を舞台にし、大ヒットした朝の連続テレビドラマを通して脚本家が描きたかったことは「よその土地から来たからこそわかる、地元の人がまだ気付いていない価値」だと聞いたことがあります。沢山の人が牧場を歩き、その魅力を発信していくことは、酪農家の軒先を「歩くこと」の価値を地元の人も気づくきっかけとなります。この北根室ランチウェイの話は、北海道の酪農がその地域の良さを伝える手段として無限の価値を秘めていることを示す好例といえるでしょう。さらに、こうした北海道酪農の可能性は、日本における「歩く旅」の可能性を示し、日本でのアウトドア文化におけるロングトレイル定着の一役を担うことが期待できるでしょう。