図1:アンゾフの成長マトリクス

 酪農は牛を飼って生乳を生産することに終始するビジネスと思われがちですが、果たしてそうなのでしょうか。実は、酪農にも様々な経営形態があり、経営方法があります。そういった意味では、様々な事業拡大の可能性が秘められているといえるでしょう。今回は、酪農における事業拡大の現実を踏まえ、酪農経営を長期的に展望します。その可能性と酪農界の未来へのヒントをマネジメントの観点から探ってみましょう。
 まずは酪農の事業としての拡大方向を、マネジメントの著名なフレームワークのひとつ「アンゾフの成長マトリクス」を使って考えてみます。「アンゾフの成長マトリクス」は、市場と製品を縦軸、横軸に配してそれぞれを新規、既存に2分割して、事業拡大のあり方を4つのマトリクスに分けて考えるものです(図1参照)。

 今回は酪農という産業を考えた際に、事業を拡大させる方向性として生乳とは異なる新規の製品やサービスを生乳購買者である既存顧客に提供する「新製品開発(C)」と、同じく新規の製品やサービスを生乳購買者という括りではない新規顧客に提供する「多角化(D)」の可能性について考えてみましょう。

酪農経営における「新製品開発」とは

 では具体的に、生乳とは異なる新規の製品あるいはサービスを生乳購買者である既存顧客に提供する「新製品開発(C)」には、どのような展開があるのでしょう。酪農家にとって生乳の最終的な主顧客は乳製品を購入する消費者です。とすれば、この人たちをターゲットにしてその延長線にある新たな製品を開発することこそまさしく新規の製品やサービスを既存顧客に提供する「新製品開発」であり、具体的には生乳加工品の製造販売がこの展開にあたると言えるでしょう。
 生乳加工品には、チーズやヨーグルト、アイスクリームなど様々ありますが、更なる価値を付加するという意味で、牧場オリジナルのチーズ生産は「新製品開発」の花形と言っていいでしょう。しかしチーズ生産というと、特殊な技術と専門的ノウハウなくしてはできないハードルの高い分野という印象が強く、大手乳業メーカー以外には縁遠いというイメージが漂います。そんな難関事業のチーズ生産ですが、北海道の酪農家の中には酪農の傍らオリジナルのチーズ生産を手掛け、自社事業の一分野として確立させている農家が存在します。
 オリジナルチーズ生産参入の決め手となっているのは、いろいろな点から酪農家たちの手助けをしてくれる団体の存在です。ナチュラルチーズ生産日本一の北海道十勝地区では、「十勝ナチュラルチーズ協議会」というチーズ生産支援団体が活動しています。同協議会は、十勝地区のチーズ生産の発展を目的として生産者が集まってスタートしたものですが、「わずか50リットルのバケツ1杯の生乳からのチーズ生産への取り組みを支援する」団体として、今では生乳生産農家のチーズ生産事業への参入手助けもしてくれているのです。
「その場で消費することを原則としたヨーグルトやフレッシュチーズなどの加工品への取り組みは比較的容易であるものの、多くの消費者相手に製品供給が可能な熟成タイプの本格ナチュラルチーズの生産には専門的なノウハウが必要です(同事務局Mさん)」と参入ハードルは決して低くはありません。しかし参入を希望する酪農家は協議会に加わることで、先人達がヨーロッパに学んだチーズ生産に関わる生きた技術や知識を学び、自己の製品開発に活かすことができるのです。
 酪農家が自社の個性をもって消費者と直接つながりを持てるオリジナル・ナチュラルチーズ生産は、一酪農家にとっては大きな目標になり得る事業拡大です。このような地域団体の協力を仰ぎつつ前向きに取り組んでいくなら、それも決して遠い夢ではないと言えるでしょう。チーズ生産成功のコツについて事務局Mさんは、「まずは生乳生産を安定させ牧場経営の土台をしっかりとつくること。その上でのチャレンジが成功に導いてくれる」と話してくれました。

酪農経営の「多角化」とは

 次に酪農において先のマトリクスにある「多角化(D)」を実現するには、どういうものが考えられるのかをみてみましょう。
 北海道の道東で親から酪農経営を引き継いだWさんはある時、自身が経営する牧場の人手不足からユースホステルに泊まる若者の手を借り始めます。すると意外にも、「無給でも牧場を手伝ってみたい」という旅行者が多いことを知り、観光牧場の併営を思いつきました。単なるレジャー目的での施設開放というよりは、多くの人に酪農の魅力を知ってもらおうという教育的あるいは啓蒙的な目的の下、自身の牧場を観光牧場化したのです。
 Wさんの本業である生乳生産が食品飲料マーケットを対象として供給しているのに対して、この観光牧場併営は製品の販売ではない体験というサービスを食品とは無関係の観光市場を対象として提供するものです。すなわち、新規のサービスを新規顧客に提供するまさしく「多角化(D)」領域での事業拡大です。
 W牧場の体験メニューは、コースメニューと単品メニューに分かれていて、乳搾り体験や、エサやり体験、バター・アイスクリーム作りなど、来場者が自身の好みに合わせ好きなプログラムを選べる方式をとっています。園内には、自家製のヨーグルトやアイスクリームなどを提供するカフェも併設されました。W牧場は観光牧場として一般開放してから既に20年弱。長年の努力の中でファミリー、カップル、修学旅行…来場者それぞれのニーズに応え多くの来場者がリピーターになっており、今では安定的に年間3万人以上もの旅行者が牧場に訪れるほどの有名観光牧場に発展したのです。
 酪農多角化としての観光牧場経営についてWさんは、「酪農の素晴らしさをより多くの人に知ってもらうことが、観光化の目的ですから、どこまで行っても基本は酪農ありき。これからも本業をしっかり守りつつ、多くの人に楽しんでいただきたい」と話してくれました。

事業拡大成功のポイントは本業を固めること

 オリジナル乳製品製造を通じて消費者と直接つながる「新製品開発」、牧場の一般開放により旅行者や教育現場との接点を拡大する「多角化」。こうして見てくると酪農は単なる生乳生産にとどまることなく、前向きな姿勢と努力次第でたいへん広がりのある事業拡大の可能性を秘めたビジネスであることが分かります。
 忘れてならないのは、成功者が共通して口にしていた「酪農業という基本を疎かにしないこと」という趣旨の発言です。本業をしっかりと底固めつつ他事業への展開を進めることは、あらゆるビジネスに共通した成功をもたらすマネジメントの鉄則でもあります。これは、大手の光学機器メーカーが、その原点であるカメラ事業を常に事業の基盤に据えながら、複写機、プリンター等の分野に事業拡大を行い、世界の冠たる企業に成長したことになぞらえることができます。こうした、本業にしっかり根を下ろしつつその場所にとどまらずに前向きにチャレンジする酪農家の方々の存在が、明るい酪農界の未来をつくっていく一役を担っているのではないでしょうか。