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北海道ナチュラルチーズ物語

エドウィン・ダンが真駒内牧牛場で初めてチーズを作ったのは1876年(明治9年)。
まだ北海道の開拓が始まったばかりのころだった。
それから140年ほどの歳月が流れ、チーズはいまや日本の食卓に欠かせない食品となっている。
もともと乳製品になじみがなかった日本人にチーズを普及させるのは、簡単なことではなかった。
そこには、おいしいチーズ作りをめざした人たちのさまざまな物語がある。

エドウィン・ダンに始まる

 1873(明治6年)年夏、エドウィン・ダン青年が92頭の牛と100頭の羊を連れて日本にやってきた。ダンは当時25歳の青年で、それまでオハイオ州で牧場を経営していた。ダンが東京官園経由で北海道へやってきたのは1875年(明治8年)。道南の七飯にあった勧業試験場で牧畜を指導したあと、1876年(明治9年)、札幌市に真駒内牧牛場を開き、ここではじめて本格的なチーズを製造した。このころに作られたチーズは、おもに神戸や横浜に往来する外国人向けに送られたらしい。1877年(明治10年)に東京上野で開催された「内国勧業博覧会」では、真駒内牧牛場の製造した「牛酪」(チーズ)が出品され、表彰を受けた。
 札幌農学校が開校したのは1876年(明治9年)。事実上の学長だったウィリアム・S・クラークは徹底した酪農主義者で、第二農場に牛舎を建て、乳製品の加工を指導した。札幌農学校の2期生だった町村金弥は、1881年(明治14年)に卒業すると真駒内牧牛場に入り、ダンから牧場経営とチーズなど乳製品製造のすべてを学んだ。札幌農学校で培われた「農学」とダンの教えてきた実践的な「技術」は、町村金弥によって統合されたことになる。その後、真駒内牧牛場からは、その後の北海道の酪農を担う多くの青年たちが巣立っていった。

エドウィン・ダン(Edwin Dun/1848 - 1931)
明治時代、北海道開拓使顧問トーマス・ケプロンの要請で牧畜振興のために来札。牧牛場・牧羊場・養豚場などの建設、家畜飼育の試験や指導、バターやチーズ、ハム・ソーセージなどの加工指導などに尽力し、「北海道酪農の父」と称される。

W・S・クラーク(William Smith Clark/1826-1886)
1876年(明治9年)、アメリカ・マサチューセッツ農科大学長時に、北海道開拓使の要請で、札幌農学校(現北海道大学)初代教頭として赴任。農業の指導や人間教育に大きな実績を残す。“Boys, be ambitious!(青年よ大志を抱け)”の言葉は、広く知られている。


酪連が本格的なチーズ生産を開始

 宇都宮仙太郎や黒澤酉蔵が設立した北海道製酪販売組合連合会(略称・酪連)は、バターに続いてチーズの製造にも取りかかった。
 1933年(昭和8年)、酪連は勇払郡遠浅に工場を建て、本格的なチーズ生産に乗り出した。デンマークでチーズ製造を研究した藤江才介を中心に、技術者たちがほとんどの設備を自力で開発するなど、苦心の末に製品化に成功した。そして翌年に「雪印」のブランドで売り出したところ、たちまち品切れとなった。
 その味は本格的なものとして評判がよく、注文に応じきれないため、工場は次々に増設された。


戦後になってめざましい消費の伸び

 戦時中、チーズの生産量は、かろうじて技術を維持できる程度にまで落ち込んだ。しかし、戦後は食生活の洋風化に合わせて、チーズの消費量は急速に伸びた。1957年(昭和32年)、雪印乳業大樹工場が完成。ナチュラルチーズ専門工場として機械設備を完備し、多くの工程が自動化された。このころからチーズはめざましい消費の伸びを見せ、日本人の食生活にしっかり溶け込んだ。1974年(昭和49年)には森永乳業別海工場で、1977年(昭和52年)には明治乳業十勝帯広工場で、1982年(昭和57年)にはよつ葉乳業十勝主管工場で、あいついでナチュラルチーズ製造が開始された。


3人の先駆者が手作りで作り始めた

 1975年(昭和50年)頃から、乳業メーカーの動きとは別に、個人によるチーズ製造の新たな芽生えがあった。
 西村公祐さんは、フランスのチーズ工場で1年間働いたあと、乳製品専門学校や国立農学院でチーズ作りを基礎から学び、1971年(昭和46年)に帰国。その4年後に、共和町の小高い丘に工房を建て、ナチュラルチーズ作りを始めた。
 芦別市で牛1頭から酪農を始めた横市英夫さんは、1979年(昭和54年)、独学でカマンベールチーズ作りを始めた。
 故・近藤恭敬さんはデンマークで5年間チーズ作りを学び、マイスターの称号を得て帰国。せたな町で酪農を営むかたわらチーズ作りを始め、1982年(昭和57年)から販売を始めた。この3人によって、北海道のあちこちに手作りチーズの種がまかれることになったのである。
 1985年(昭和60年)頃から、次の第2世代によるチーズ作りが花開いた。その中心となったのは宮嶋望(共働学舎新得農場代表)さん、堤田克彦(チーズ工房アドナイ)さん、半田司(半田ファーム)さんである。


さらなる高みをめざして

 30数年前、北海道はすでに日本一の酪農生産地だったが、地元ならではの乳製品はごくわずかしかなく、生乳の生産地に過ぎない状況にあった。それが現在では、北海道のいたるところで、その土地ならではの美味しいチーズを楽しめるようになった。
 1998年(平成10年)から「ALL JAPAN ナチュラルチーズコンテスト」が隔年で開催されているが、第1回から北海道の工房が常に上位を占めている。また外国のコンクールで優秀な成績を収めるチーズも増えてきた。
 チーズを製造する側が技術の向上に努力を重ねる一方で、それらのチーズを消費者に広く紹介する動きも始まった。北海道牛乳普及協会とホクレンは、1987年(昭和62年)より「ミルク&ナチュラルチーズフェア」を札幌市のデパートで開催し、翌年からは帯広市でも開催している。また、ホクレンは本州の大消費地でも「ミルクランド北海道フェア」を数多く開催している他、2019年には国の事業を活用した「北海道地チーズ博」を東京で開催するなど、多くのチーズを紹介し続けている。
 北海道でチーズ作りが盛んになってきたのは、これまで取り上げてきた先人たちの苦労の賜物であるとともに、世界で最高水準の品質を誇る「生乳」によるところが大きい。優れた生乳とそれを乳製品に加工する技術の蓄積によって、北海道はいま誰もが認めるチーズの里になった。